わたし達の越谷北高も開校して40年以上が経過しました。開校当時は、学校周辺には田んぼばかりで住宅は少ない状態でしたが、あっという間に、宅地化が進み昔の面影がなくなりつつあります。でも、わたし達が毎日歩いた新方川(にいがたがわ 通称:千間堀)の自然はそのまま残されています。
今回は、現在の通学路周辺の風景を集めてみました。そして通学路の移り変わりを「しらこばと」創刊号での記事からふりかえってみましょう。
■通学路の変遷
はるかなる旅路
みなさんは、日頃利用している通学路が、現在のものに定まるまでにいつかのコースがあったということをご存知ですか?
北高生の大部分は、日常何の疑問も持たずに歩いているのではないでしょうか。
そこで私たちは今日までの通学路の移り変わりについて調べてみました。
調査してみると、創立二年目から現在まで4コースが浮かび上がりました。まず、創立二年目は、当然のことながら信号も歩道橋もありませんでした。第一、まわりは田んぽばかりで駅から学校が見えたくらいですから・・・・・・・・・
この頃の通学路は国道4号線を渡るために、現在使用している信号機からなんと800メートルも先の武里入口の十字路まで国道沿いに下り、信号のあるところまでいかなければならなかったそうです。それから国道沿いに上り、せんげん堀に沿った道まで戻り、学校まで行くといったようなものでした。(①コース)
①コースと並行して使用された通学路に下問久里の歩道橋を使うコースがあります。(②コース)このコースも①コースと同様に駅から歩道橋までかなりあります。私たちは、これらの通学路を実際に歩いてみましたが、とても長く感じること・・・・・・。①コースは駅から校門まで約35分。現在ならば、せんげん台着8時20分の電車でも遅刻せずにすみますが、創立2年目は、当時通学路から考えて、8時着の電車がタイムリミットです。現在も①のコースが利用されていたとすれば、きっと遅刻者が続出したことでしょう。
②コースは駅から学校まで約27分。現在のタクシーコースになっています。次に、せんげん台ハイツが工事中にだった時に使われていた通学路ですが、この頃には前から陳情を続けてきた歩道橋と信号機が出来上り、国道4号線の横断が容易になりました。国道4号線を横断してからせんげん堀沿いに歩き、念仏橋のある十字路を桜井小学校のある方へ進み、北高へ至るというわけです。(③コース)。このコースは約23分。今までの中では、一番距離が短かいのですが、やはり現在と比べると、遠まわりのようです。これらの通学路の移り変わりは、学校周辺の環境と関係している様に思われます。こうして調べてみると、遠い遠いと言いつつも、昔よりずっと楽に又、安全になってきているのです。あなたも、もう一度通学路を見なおしてみましょう。!
一一昭和54年3月9日発行生徒会誌「しらこばと」創刊号より一一